出初式(でぞめしき)

 
「出初式」(でぞめしき)の歴史は、
江戸時代の万治2年1月4日(1659年2月25日)に時の老中 稲葉伊予守正則が
定火消総勢4隊を率いて、上野東照宮
「定火消」によって顔見せの儀式
「出初」を行い、気勢を上げたことが
由来とされています。
 
これは、その2年前の明暦3(1657)年に
当時の江戸の大半を焼失し、
死者10万人を出したとも言われている、
日本史上最大の大火災
「明暦の大火(振袖火災)」により、
絶望状態にあった江戸の市民に
大きな希望と信頼を与えました。
 
定火消(じょうびけし)

   

「定火消」は幕府直轄の消防組織です。
4000石以上の旗本4名(秋山正房・
近藤用将・内藤政吉・町野幸宣)を選び、
飯田橋・市ヶ谷・お茶の水・麹町に
火消役の屋敷を作り、いつも役人や
火消人足を置いて、火事が起きたら
すぐ出動出来るように待機させていました。
 
以降、毎年1月4日に上野東照宮では
「定火消」による
「出初」が行われるようになり、
次第に儀式化していきました。

「出初」は大名火消でも行われ、
特に派手な装束と勇壮な活躍で知られた
「加賀鳶」(かがとび)の出初では、
梯子の曲乗りが衆目を集めました。 
 
八代将軍の徳川吉宗は、享保3(1718)年、
禄高一万石以上の藩に対し、
江戸藩邸を守る「大名火消」を設置するよう
命じたのを受けて、加賀藩では
江戸上屋敷の防備のために設置していた
自衛消防隊を豪華なものに増強しました。
これが「加賀鳶」(かがとび)の始まりである
とされています。
 
 
一方、大岡忠相が主導して、
享保3(1718)年に制度化された「町火消」も
「出初」に倣って仕事始めの儀式が行われる
ようになりました。
 
 
「町火消」の行った仕事始めの行事は
区別のために文字を引っ繰り返して
「初出」と言いました。
 
「町火消」は、毎年1月4日に
それぞれの組を象徴する
「纏」(まとい)を掲げて組内の町を練り歩き、
梯子乗りや木遣り歌を披露しました。