御霊会(ごりょうえ)

「御霊会」(ごりょうえ)とは、
「御霊祭」(みたままつり)とも言われ、
思いがけない死を迎えた者の御霊による祟りを防ぐための、
鎮魂のために行われるものです。
 

 
平安時代には、
「不慮の死を遂げた者の死霊」=「怨霊」へと意味が転化しました。
そして、天変地異は全て御霊の所業と考えられ、
御霊に対する信仰が出来上がりました。
 
貞観5年(863)5月20日、神泉苑において「御霊会」が行われました。
『金光明経』・『般若心経』と言った仏教経典の読経とともに、
歌舞音曲や民衆参加の踊りなども行われ、
この行事が、神道的な祟の除去を目的としたことや民衆の参加を許した
神仏習合的な神事のことを言います。
 
  • 住  所:〒604-8306
         京都府京都市中京区
         御池通神泉苑町東入る門前町167
  • 電  話:075-821-1466
  • 参拝時間:7:30~20:00
 
 

主な御霊

 
 

六所御霊ろくしよごりよう

 貞観5年(皇紀1523年・863年)の
 神泉苑での「御霊会」において祀られた
 5柱の御霊と後に加えられた藤原広嗣の御霊のこと
 
 
崇道天皇(早良親王)
桓武天皇の信頼が厚かった藤原種継を暗殺したとの
疑いをかけられた恒武天皇の弟宮・早良(さわら)親王は、
捕えられ、皇太子を廃されて、乙訓寺に幽閉されます。
身の潔白を証明するために10日余り一切の飲食を絶って
抗議されましたが聞き入れられず、
淡路への流罪の途中、自らの命を断ちました。
屍は淡路に送られ、最初の墓は淡路に造営されたましたが
その後、桓武天皇の周辺に不幸が襲いかかったため、
占わせてみたところ、「早良親王の祟り」であると出、
天皇はすぐに淡路国に使いを遣り、陳謝しました。
更に「崇道すどう天皇」と追号し、名誉を回復されました。
 
 
伊予親王(桓武天皇皇子)
/藤原夫人(伊予親王の母・藤原吉子)
桓武天皇夫人とその皇子。
桓武帝薨去後、要職を歴任していた伊予親王は、
藤原宗成の告白により
「伊予親王の変」と称される謀反の首謀者とされ、
それを信じた平城天皇により、
母・吉子とともに大和国の川原寺に幽閉。
絶望した母子は飲食を断ち、親王の地位を廃された翌日、
自ら毒を飲んで、悲劇的な最期を遂げた。
幼い時から病弱で、性格も猜疑心が強く、
精神的にも不安定であった平城天皇は、
この怨霊に悩まされ続け怨霊から逃れるためたった3年で
嵯峨天皇に皇位を譲ります。
上皇となって後、藤原仲成・薬子兄妹の野望に耳を傾け、
平城京遷都の詔勅を発し、いわゆる「薬子の変」が勃発。
温厚な嵯峨天皇もさすがにこれを許さず、仲成は射殺、
薬子は服毒自殺、平城上皇は失意のうち出家されました。
 
 
橘大夫(橘 逸勢)
橘 逸勢たちばなのはやなりは平安前期の官人。左大臣・橘諸兄の曾孫。
嵯峨天皇,空海と共に三筆と呼ばれた能書家。
最澄や空海らと共に遣唐使として入唐。
その才は唐人から「橘秀才」と称賛されました。
しかし帰国後、「承和の変」に連座したとして逮捕され、
拷問を受けた後、配流地の伊豆へ向かう途中に
病没するという非業の死を遂げました。
死後、無実として正五位下、後従四位下を贈られました。
また怨霊が恐れられ、上・下御霊神社に祀られました。
 
 
文大夫(文室宮田麻呂 )
文室宮田麻呂ふんやのみやたまろは平安初期の貴族。
840年に筑前守となりましたが、辞めた後も九州に留まり
新羅の張宝高と交易を行なっていました。
承和10年(843)に突然、謀反を企てていると密告され、
左衛門府に拘禁され、遂には伊豆へ配流されました。
 
 
観察使(藤原広嗣)
藤原四兄弟が急死後、政権を主導していた橘諸兄は、
遣唐使であった吉備真備や玄昉を重用する一方、
式家の祖で藤原宇合の長男・藤原広嗣は大宰府に左遷。
藤原家の地位低下に危機感と不満を持っていた広嗣は、
「疫病や社会情勢の不安は、
 唐帰りの吉備真備や玄昉を採用したことが、
 天の意思と異なったからだ」という上奏文を送り、
 挙兵しましたが、官軍によって鎮圧され、
広嗣は処刑されました。(藤原広嗣の乱)
この乱は、聖武天皇の「恭仁京」・「紫香楽宮」への
転居の原因となりまた折りからの天然痘流行と相俟って、
広嗣の祟りに因るものだと人々は恐れたのでした。
吉備真備は広嗣を祠を立てて祀り、
朝廷に請うて鏡尊廟と号されたのでした。
 
 
上御霊神社(正式名:御靈神社)」と「下御霊神社」では、
伊予親王、観察使(藤原広嗣)に代わって
井上大皇后(井上内親王)、他戸親王が当てられています。
 
井上大皇后(井上内親王)/他戸親王
井上内親王は聖武天皇の皇女。
5歳の時斎王に選ばれ、11歳で神宮に出仕。
30歳で斎王を交代し、任を解かれて平城京へ戻り、
後に白壁王(後の光仁天皇)と妃となり、
他戸おさべ親王が生まれます。
稱徳天皇が崩御の後、白壁王が62歳で即位するとともに
54歳で立后し、他戸親王11歳も皇太子になりました。
しかし一転、「巫蠱ふこだいぎゃく」「厭魅えんみ 」という呪いによる
大逆の罪で皇后・皇太子を廃され、
他戸親王と共に幽閉の後、母子同時に死去。
藤原百川らに毒殺されたとみられています。
二人が亡くなって2か月後から異変が始まります。
そのため、光仁天皇は井上内親王の墳墓を改葬して
御墓と称し、守冢一烟を置き、翌年には改葬します。
没後25年後の延暦19(800)年に、
桓武天皇は井上内親王を皇后に復位、
「吉野皇太后」と呼ばれました。
御墓を御陵(宇智陵)としました。
 
  • 住所:〒602-0896
       京都府京都市上京区
       上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495
  • 電話:075-441-2260
  • 住所:〒604-0995
       京都府京都市中京区寺町通丸太町下る
  • 電話:075-231-3530
  • 開門:午前6時
  • 閉門:午後7時30分
  • 授与所・朱印:午前9時~午後5時
 
 
 

八所御霊はっしょごりょう

六所御霊に2柱の御霊が追加されています。
・火雷神 (菅原道真)
・吉備大臣(吉備真備)
 
八所御霊神社(はっしょごりょうじんじゃ)は、
秋篠寺の「南門」を出てすぐ南東側に位置し、
秋篠寺の「鎮守神」としての歴史を持つ神社です。
「八所御霊」として非業の死、不慮の死を遂げられた人物として
平安時代にその「怨霊」が恐れられた
崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・橘逸勢・文屋宮田麻呂・
藤原広嗣・吉備大臣・火雷神(または菅原道真)を
ご祭神としてお祀りしいます。
平安時代初頭の貞観年間に
「御霊神社」から「八所御霊神社」に名称が変更されました。
八所御霊神社
  • 住所:〒631-0811
       奈良県奈良市秋篠町742