大国主神の国造り

古事記 
 

大国主神の葦原中国平定

 

大国主神の神裔

出雲の支配者となった大国主神は、
須佐之男命の娘「須勢理毘売命すせりびめのみこと」の他、
誓約うけいによって生まれた
「宗像三女神」の長女「多紀理毘売命たきりびめのみこと」を始め、多くの后を娶り、
十七世神とおまりななよのかみ」とも呼ばれる多くの神々の父となりました。
 
「因幡の白兎」で登場した八上比売やがみひめは正妻の須勢理毘売命すせりびめのみことを恐れて、
大国主神との間に生まれた御子神「木俣神このまたのかみ」を木の俣に刺し挟んで、
実家に帰って行きました。
 
また沼河比売ぬなかわひめとの間には、諏訪大社の祭神「建御名方神たけみなかた」がいます。
大国主神は、現在の北陸一体の高志国こしのくに沼河比売ぬなかわひめを娶ろうと出掛け、
八千矛神やちほこ」の名を使って歌を詠み交わし、翌晩二柱は結ばれました。
ここでお二人が交わされた歌が、古事記で初めて出てくる恋の歌だそうです。
 
これに、妻の須勢理毘売命すせりびめのみことが大変嫉妬。
困惑した大国主神は出雲国から大和国に逃れる際に
須勢理毘売命すせりびめのみことに歌を詠むと、
須勢理毘売命すせりびめのみことは杯を捧げて留める歌を返したそうです。
 
そんなことがあったからでしょうか。
沼河比売ぬなかわひめは結婚後、大国主神と不仲になり、
故郷・高志の国に逃げ帰り、糸魚川平牛山稚児ケ池の畔に身を隠し、
二度と姿を見せなかったということです。
 
 

大国主神の国造り

 

少名毘古那神(すくなびこなのかみ)

そしてここから、いよいよ「国造り」に入ります。
大国主神が、出雲の御大岬みほのみさきにいた時のことです。
海の彼方から「天之羅摩船あめのかがみぶね」に乗って近づいてくる
蛾の皮で出来た鵝皮ひむしのかわを着た小さな神様がいました。
名を尋ねても返事をしません。
 
誰だろうと思っていると、そこにヒキガエルの多邇具久たにぐくが現れて、
「山田の案山子かかしの神・久延毘古くえびこに聞けば分かりますよ」と言いました。
そこで久延毘古くえびこの元に訪れて、彼の名を尋ねると、
神産巣日神かみむすひのかみの御子神・少名毘古那神すくなびこなのかみです。」と教えてくれました。
久延毘古くえびこは歩くことは出来ないけれど、
世の中のことを何でも知っている神でした。
 
さて、大国主神が高天原に問い合わせたところ、
神産巣日神かみむすひのかみは、
「これは確かに私の子である。
 子の中でも小さ過ぎて、私の指の隙間から落ちてしまったのだ。
 とても優秀な子だから、少名毘古那神すくなびこなのかみと共に国造りをするように」
と命じました。
こうして、大国主神と少名毘古那神すくなびこなのかみの二柱の神様は
協力して国造りを進めていきました。
 
この二柱について、『古事記』ではあまり触れられていないのですが、『日本書紀』や各地の『風土記』では、その活躍が記されており、それによると、全国の国造り、山造り、島造りなどの国土開発事業や農業技術の指導普及を行いました。
ある時、病気になった少名毘古那神すくなびこなのかみがお湯に浸かると、やがて病状は回復。
この時のお湯が、現在の道後温泉(愛媛県松山市)の基になったと言われています。
そのため現在でも、両柱は、医療・医薬、酒造、農業、温泉、占いなどの神様として、こうした業種に関連する方々(製薬会社やビール会社など)からは特に篤い崇敬を集めています。
 
ところが国造り半ばにして、
少名毘古那神すくなびこなのかみは突如、自分の役割は終わったとして、
粟の茎に登り、その弾力を使って常世の国に帰って行ってしまいました。
 
 

御諸山(みもろやま)の神・大物主神

大国主神は大変ショックを受け、
この先、一人でどうやって国作りに励めばいいのか、
その方向性を見失ってしまいました。 
 
すると、海の彼方から光を照らしながらやってくる神、
大物主神おおものぬし」がありました。
「私は、幸魂奇魂さきみたまくしみたまである。
 私の御魂を丁重に祀るのならば、私は国造り協力しよう。
 私の助力がなければ、国は成り立たないだろう」と
仰せになりました。
 
大国主神はどう祀ればよいのかお尋ねになると、
「大和の国の青々とした山々が廻っている中の、
 東の山の上に祭りなさい」とお答えになりました。
 
早速言われた通り、大物主神おおものぬしを大和の御諸山みもろやま
現在の三輪山(奈良県桜井市)に祀りました。
 
このように御諸山の神「大物主神おおものぬし」の協力もあり、
大国主神は葦原中国を完成させ、国をお造りになりました。
葦原中国は大変に賑わい、その様子は高天原にも伝わったのでした。