朝顔(あさがお)

 
夏に咲く花の代表「朝顔」は
縁起物としても知られています。
 

「牽牛子」(けんごし)

「朝顔」は、奈良時代にChinaから伝わった
外来植物です。
現代では「鑑賞用」として栽培されていますが
元々は高級な「薬」(強い下剤=峻下剤)として
遣隋使を通じて日本にやってきました
 
 
Chinaでは種を「牽牛子」(けんごし) と呼び、薬にしていました。
非常に高価で珍重された事から、
贈答された者は
牛を引いて御礼に伺ったと言われることから、
「牽牛子」という名が付いたそうです。
そして花は「牽牛花」と呼ばれました。

 
China名「牽牛花」は、
彦星の花=織姫を表わすからと、
開いた花を「朝顔姫」と呼び、
花が咲けば、「彦星」と「織姫星」が
今年も出会えた印であるとして、
縁起が良いとされました。

 
東京入谷の鬼子母神の「朝顔市」が
毎年七夕に合わせて開催されるのは、
七夕に咲く「朝顔」が特別に縁起物だからです。
 

東京入谷の鬼子母神
「入谷朝顔まつり」

 
毎年7月6日から8日まで開催される、
日本最大の朝顔市です。
60軒の朝顔業者と96軒の露店が並び、
毎年約40万人もの人出で賑わいます。
 
 
「入谷の朝顔」が
世に知られるようになったのは、
江戸時代末期の頃と言われています。
最初は御徒町で栽培されていたものが、
時代の変遷とともに
入谷の植木屋が作るようになったそうです。
 
明治中期になると、
その出来栄えの素晴らしさから、
鑑賞用として広く知られるようになり、
最盛期の頃は、一千種類もの「朝顔」が
花を咲かせたと言われています。
大正の時代に、一度、
入谷の地から姿を消した「朝顔」ですが、
戦後、朝顔同好会(現・朝顔実行委員会)により
再び「朝顔市」として今の姿を取り戻すことと
なりました。
 

園芸ブーム

「朝顔」は、日本においてのみ園芸化が進み、
これまで数多くの品種が作られてきました。
そして最近のブームによって、
またその品種数を増やしつつあります。
 
奈良時代に日本に渡来した「朝顔」は、
当初は薬として利用され、
「朝顔」とは呼ばれていませんでしたが、
その後、花を観賞する目的でも
栽培されるようになったようです。
厳島神社保有の国宝「平家納経」(1164)には、
野生型(並)葉の群青色の朝顔が
初めて描かれています。
 
時を経て江戸時代になると、
草花の品種改良が盛んに行われ、
数多くの草花の新種が生まれる中、
「朝顔」にも空前のブームが起こります。
 
第一次朝顔ブーム
~文化・文政期 [1804~1830]~
 
1806年、江戸大火「丙寅の大火」が起きます。
この火事により、
下谷(現在の東京都台東区)には、
大きな空き地が出来、そこで植木職人達が
品種改良をした「朝顔」を栽培して、
人々の注目を集めました。
 
 
「変化朝顔」呼ばれる、一風変わった姿の
朝顔が人気を集めたようで、
八重咲きや、花びらが細くなっているもの、
一見桔梗にも似たものなど、
現存するほとんどの変異種が出揃いました。
 
一方、比較的濃色の黄色花など、
現在では見ることが出来くなった
「朝顔」もあったようです。
これらの珍しい「朝顔」は、
「菊」などと並んで
高値で取引されたそうです。
この朝顔ブームを支えたのは、下級武士達。
独自に朝顔の栽培と品種改良を行い、
内職していたそうです。
 
第二次朝顔ブーム
~嘉永・安政期 [1848~1860]~
 
文化文政期、変異を組み合わせた、
より複雑で珍奇な「朝顔」が
1200系統も生み出されました。
 
 
「第二次ブーム」を牽引したのは、
入谷で弘化期から明治まで植木屋を営んでいた
成田屋留次郎でした。
本名は山崎留次郎と言い、
歌舞伎の市川團十郎のファンだったことから
屋号を團十郎の屋号の「成田屋」に変え、
柿渋色(団十郎茶)の丸咲き朝顔を
「団十郎朝顔」(だんじゅうろうあさがお)と名づけ、人気を得ました。
 
 
そして自ら「朝顔師」と名乗り、
朝顔の品種改良に没頭する一方、
『三都一朝』『都鄙秋興』『両地秋』など、
園芸に関する本の出版も行ったようです。
朝顔の品評会である「花合わせ会」を主催し、
ブームを盛り上げました。
同時期に「朝顔栽培家」として名を馳せた、
北町奉行の鍋島直孝(なべしま なおたか)
[号:杏葉館(きょうようかん)]は、
江戸時代の銘花を集めた図鑑
『朝顔三十六花撰』の序文を記しました。
 
万延元(1860)年に江戸を訪れた
英国の植物学者のロバート・フォーチュンは、
「世界一の園芸都市」と称賛しています。
 

明治期以降

明治になると、日本伝統の文化だけなく
植物なども顧みられなくなるのですが、
中頃になると、
再び「朝顔」を栽培する者が現れ、
各地に「朝顔」の同好会が結成され、
「第3次ブーム」とも言うべき
「朝顔ブーム」を迎えます。
そして昭和初期まで、次第に洗練された系統が
観賞されるようになりました。
 
 
東京(江戸)の朝顔栽培の拠点は
下谷から入谷に代わり、
「東京朝顔会」などの愛好会が結成されました。
この頃になると、人々の嗜好が変わり、
直径が20cmを超すような、
大輪咲きの朝顔栽培が主流となっていきます。
艶やかな大輪の朝顔が多く並んだ
「入谷の朝顔市」は、
多くの人で賑わったそうです。