稲荷寿司(いなりずし)

 
「稲荷寿司」(いなりずし)は、
甘辛く煮た油揚げの中に、酢飯を詰めた寿司の一種です。
「お稲荷さん」とか「信太ずし」、「狐ずし」などとも呼ばれています。
江戸時代より食べられており、庶民の食べ物として親しまれてきました。
簡単に食べられるということから
ファストフード的な位置づけとして広まっていきました。
 
 

稲荷寿司の由来

 
稲作民族の日本人には、古くから農耕や食べ物を司る
「宇迦之御魂神」(うかのみたまのかみ)を「稲荷神」として祀る
習慣があります。
稲荷神の使いがキツネであり、
お稲荷さんにはキツネの好物が油揚げが供えられ、
このお供えしてあった油揚げの中にごはんを詰めて寿司にしたことから
「稲荷寿司」と呼ぶようになったと伝えられています。
 
「稲荷寿司」が生まれたのは、尾張名古屋と見られていますが、
天保(1830~1844)の頃には、江戸の町にも登場していましたから、
約200年の歴史を持つ食べ物です。
 
名古屋説
名古屋の「あぶらげずし」は、
甘辛く煮た油揚げ一杯にすし飯を詰め、底を閉じないのが特徴です。
 
ところで、「あぶらげずし」と「巻きずし」の組み合わせを
「助六」と呼んだのは名古屋が最初だと言われています。
その由来は、
歌舞伎十八番『助六所縁江戸桜』(すけろくゆかりのえどざくら)
主人公・助六から来ているという説があります。
助六の愛人の名である「揚巻」(あげまき)の「揚げ」から
油揚げを使った「あぶらげずし」に見立て、
助六がはち巻きをしてきたことから
「巻きずし」になぞらえたのではないかと言われています。
 
豊川稲荷説
「日本三大稲荷」の一つである「豊川稲荷」の門前町も
「いなり寿司発祥の地」の一つとして伝えられています。
天保の大飢饉の頃に考え出されたと言われています。
「稲荷寿司」の「稲荷」の語源が、
「豊川稲荷」を始めとする「稲荷」であることから、
豊川稲荷の門前町では、古くから「いなり寿司」が販売され、
参拝客に振る舞われてきました。
 
現在、豊川市では、出汁を吸った油揚げと酢飯で作られた
スタンダードな「稲荷寿司」も人気ですが、
稲荷寿司の上に
愛知県名物のみそカツを載せたものや鰻の載せたものなど、
様々な工夫を凝らした創作稲荷寿司も多くのお店で販売されています。
全国に豊川市を知ってもらうため「稲荷寿司」を地域ブランド化し、
「豊川いなり寿司で豊川市をもりあげ隊」が結成されています。
 
江戸の稲荷寿司
江戸で「稲荷寿司」は、
玉子や海苔の巻寿司のように細長く、油揚で巻いた寿司として生まれ、
独自の屋台や振り売りで、
一本16文、半分8文、一切れ4文と切り売りされていました。
そして、油っぽいのでわさび醤油で食されました。
 
稲荷寿司に関する最古の史料としては、
江戸時代末期に書かれた『守貞漫稿』(もりさだまんこう)があります。
「天保末年(旧暦1844年、新暦1844年2月~1845年1月)、
 江戸にて油揚げ豆腐の一方をさきて袋形にし、
 木茸干瓢を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。
 (中略)なづけて稲荷鮨、或は篠田鮨といい、
 ともに狐に因ある名にて、
 野干(狐の異称)は油揚げを好む者故に名とす。最も賤価鮨なり。
 尾の名古屋等、従来これあり。
 江戸も天保前より店売りにはこれあるか。」とあります。
 
『天言筆記』(明治成立)には
「飯や豆腐ガラ(オカラ)などを詰めてワサビ醤油で食べる」とあり、
「はなはだ下直(げじき-値段が安いこと)」とあります。
 
嘉永5(1852)年発行の『近世商売尽狂歌合』の挿絵には、
今日では見られない細長い稲荷寿司を切り売りする屋台の様子が、
同じく嘉永5(1852)年発行の『近江商買狂歌合』には、
ざるや木桶、木箱、カゴを前後に取り付けた天秤棒を振り担いで売る
「振売」(ふりうり)というスタイルで稲荷寿司を売る商人の姿が
描かれています。
 
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名前の由来

稲荷寿司
なぜ「稲荷寿司」と呼ばれるようになったのか、
明確な由来は未だ分かっていません。
 
稲荷信仰の総本宮である京都の「伏見稲荷大社」には、
「稲荷の由来」として次のような物語があります。
奈良時代の「山城国風土記逸文伊奈利社条」によると、
「秦氏の祖先である伊呂具秦公いろぐのはたのきみが自らの豊かさを奢り、
 餅を的にして弓を射ようとしたところ、
 その餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去り、
 そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)、
 それが社の名となった」とあります。
その山は元々伊奈利山いなりやまと呼ばれており、
この由来から「稲生」「稲荷」へと転じたと考えられています。
 
関西では「信太(篠田)ずし」との名も
稲荷寿司は、特に関西方面で「しのだずし」とも呼ばれ、
「篠田寿司」「信太寿司」と表記されるのをご存じでしょうか。
「しのだ」の由来は人形浄瑠璃の演目、
通称「葛の葉」から来ています。
 
ある時、信太の森(大阪府和泉市)に住む美しい狐が
安倍保名(あべのやすな)に命を助けられ、
葛の葉(くずのは)という名の娘に化けて、保名の妻となります。
二人の間には子まで生まれますが、ある日、正体が露見。
そこで葛葉は歌を残して去ります。
「恋しくば尋ねて来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」
この子が後に有名な陰陽師となった安倍晴明ということです。
キツネが油揚げを好むとされることから、
そこから油揚げを使った料理を「しのだ」と呼ぶのが定説になっています。
 
大阪府和泉市葛の葉町には、
清明の母である白狐が住んでいたと伝えられる神社があります。
豊穣・商売繁盛の他、学徳成就・良縁祈願・安産祈願・
子宝・夜泣き・交通安全に御利益があると言われています。
 
 

稲荷寿司の形

稲荷寿司の形は東と西では違いがあります。
 

 
東の場合は、
油揚げを中央で半分に切り、その中に寿司飯を詰めのが主流です。
稲荷神が元々五穀豊穣の神を祀る「田の神信仰」に由来し、
「稲生り(いねなり)の神」とされていることから、
米を入れた俵に見立てているとの説があります。
 

 
一方西の場合は、四角形の油揚げを斜めに切って三角にし、
その中に五目飯などを入れます。
形も三角となり、
稲荷神社の総本宮・伏見稲荷大社のある
稲荷山の形に見立てたとか、
狐の耳の形に見立てたなどの説があります。
 
 

初午

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立春を迎える「初午」の日の頃は、
一年のうちで最も運気の高まる日と言われており、
その日に合わせて、
稲荷神社のお使いである狐の大好物「お揚げ」を、
稲荷寿司として食べることで、
商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達・病気平癒など、
様々な幸を願うのが「初午いなり」です。
 
「願いの数だけいなり寿司を食べると良い」
「いなりの3文字に倣い、
 命の<い>、名を成すの<な>、利益を上げるの<り>として、
 3つのいなり寿司を食べると良い」など、
各地で様々な縁起に基づいた習わしとして、
稲荷寿司を食べる風習があります。
 
 
初午いなりの日」(2月11日)
初めて稲荷社の本社である「伏見稲荷大社」の
ご祭神・宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)
伊奈利山へ降りた日が、
和銅4(711)年2月11日であったとされています。
この日が「初午」であったことから、
初午に福を招く「いなり寿司」を「初午いなり」と呼び、
もっと初午いなりを知ってもらうことを目的として