蘇民将来符(そみんしょうらいふ)

 
「蘇民将来」(そみんしょうらい)は、
蘇民将来の説話や伝承が基礎となって、
災厄を払い、疫病(えきびょう)を防ぐ神として、
今も広く信仰されています。
 
 

蘇民将来とは

蘇民将来(そみんしょうらい)は、
各地に伝わる説話や伝承に登場する人物名です。
 
牛頭天王(ごずてんのう)=須佐之男命(すさのおのみこと)
旅の途中で難儀された時、
蘇民将来が厚いおもてなしをしたことを喜ばれ、
「蘇民将来子孫也」と記した護符(または茅の輪)を持つ者は
疫病を免れるとお教えになったという
「蘇民将来伝説」(そみんしょうらいでんせつ)の伝承は
日本各地にあります。
 

 
特に、京の夏の風物詩である「祇園祭」(ぎおんまつり)は、
この民間信仰の代表的な例です。
祇園祭に参加する氏子は「蘇民将来子孫也」の護符を身につけます。
祇園祭の山鉾(やまぼこ)では、「粽」(ちまき)が授与されるのですが、
「粽」(ちまき)に付けられた紙の札には
「蘇民将来之子孫也」(そみんしょうらいのしそんなり)と書かれています。
 

 
京都祇園の八坂神社の祭神は牛頭天王で、
疫病を防ぐ神であり、薬師如来を本地仏とし、
神道における須佐之男命と同体であるとされています。
八坂神社は、
貞観年間(859-877)に
円如が播磨国広峰から牛頭天王を遷してここに祀り、
元慶年間(877-885)、
摂政・藤原基経が牛頭天王のために精舎を建て
「祇園社」と呼んだことから始まります。
そして、天禄元(970)年、悪疫を鎮めるために
「祇園御霊会(祇園祭)」が始まったと言われています。
当時は医療技術が乏しかったので、
疫病を防ぐ強い力を持つ牛頭天王に対する信仰は、
平安時代末期から中世にかけて広範囲に広まっていきました。
 

  

 
「蘇民将来」と記された御札は、
主に須佐之男命を祀る神社で授与されています。
形は六角柱、八角柱、板状、茅の輪に付けられた紙状のものなど、
様々です。
家の戸口や神棚に祀って、疫病除けにします。
 

 
 

「蘇民将来」の伝説

昔、北の海におられた「武塔神」 (むとうのかみ)と称される神が、
南の海の神の娘のところへ行かれる途中で日が暮れてしまった。
そこに蘇民将来と巨旦将来 (こたんしょうらい) はという二人の兄弟がいた。
兄の蘇民将来は大変な貧乏だったが、弟の巨旦将来は大変金持ちで、
家も蔵も百ほどもあるような富豪だった。
神は一夜の宿を弟の巨旦将来に頼まれたが、
けちな弟は泊めることを断ったので、
兄の蘇民将来のところへ行って一夜の宿を頼まれると、
そこでは快く迎えた。
しかし貧乏なので、敷物の代わりに栗殻を敷き詰めて座にし、
栗飯を炊いてさしあげ手厚くもてなした。
それは蘇民にとって精一杯のもてなしだった。
 
一夜明けて神はそこを出発され、幾年か経った後、
八人の子を連れての帰り道、蘇民将来のところへ立ち寄られた。
そして「巨旦将来への報いと、
一夜の恩を受けたお前のために何かしてやりたいが、
お前の子や孫達はおるのか」と聞かれると、
蘇民将来は「私と娘と妻がいます」と答えた。
すると神は「茅の茎で作った茅の輪 (ちのわ) を腰につけておきなさい」
と言われたので、言われるとおりにした。
 
ところがその夜のうちに、蘇民と妻子以外の、
周りに住む人々がことごとく死に絶えほろぼされてしまった。
その時神は「私は須佐之男命である。
今から後の世に疫病がはやれば、お前達は “ 蘇民将来の子孫 ” といって、
茅の輪を腰につけなさい。
私の言うとおりにすれば、
茅の輪を腰につけた者は疫病から免れるだろう」と言われた。
この故事から「茅の輪 (ちのわ)」は疫病除け、悪災疫除けの霊力のある
神符といわれている。
 
須佐神社では、毎年節分祭に茅の輪を授与し、
また「蘇民将来之子孫」と記した守護札を授与しています。
節分の日に参拝した人々は「茅の輪」を受け首にかけて持ち帰り、
玄関や入り口に掲げ疫病除け、悪災疫除けの神符としている。

須佐神社
(〒 693-0503 島根県出雲市佐田町須佐 730)

 
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