小野篁と地蔵信仰

小野篁(おののたかむら)は平安時代前期の政治家・学者・歌人です。
 

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遣隋使・小野妹子の子孫で、
小野好古、道風(「三蹟」の一人)は、篁の孫に当たります。
博識多才で、「漢詩は白楽天、書は王羲之父子に匹敵する」と
言われたほど。
「三蹟」(さんせき)
書道の能書家として平安時代中期(10世紀頃)に活躍した
小野道風、藤原佐理、藤原行成の3名を指す。
 
『経国集』『和漢朗詠集』『古今集』などに作品を残し、
書家としても知られ,『令義解』の編集にも携わっています。
 
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
     人には告げよ 海人の釣舟
小倉百人一首 
        (小野篁が838年に隠岐の島に流される時に歌ったもの)
 
 
身長は180cmを超える大男だったようで、
武芸も卓越した才能を発揮したことでも有名で、
奔放な性格なため、
粗野と小野を兼ねて「野狂」(やきょう ) と称されました。
 
 
ある時、内裏で、
「無悪善」と書かれた立札が見つかった時、
嵯峨天皇に読み方を問われて、
 サガ(悪) 無クバ、善カリナマシ
(嵯峨天皇がいなかったら世の中がよくなるのに)
と詠んで、嵯峨天皇の怒りを買ったという
エピソードがあります(『江談抄』)。
 
この話には続きがあって、
次に嵯峨天皇が、
「それなら『子子子子子子子子子子子子』は何と読む」と
聞いたところ、
「ねこのここねこ、ししのここじし」と答えたことで、
天皇の怒りは解けて、上記の件は許してもらえたとか。
ただ当時、嵯峨天皇は、 篁が武芸に夢中で学問を顧みなかったことを”父に似ぬ子”と慨嘆していたのだそうです。
 
承和元年には、遣唐副使となったものの、
船舶のことで大使の藤原常嗣と争い、
「西海謡」という漢詩を作って遣唐使批判をし、
更には病と称して渡航しなかったため、
嵯峨上皇に咎められ、隠岐国に流されました。
ただ1年半後には
嵯峨上皇の許しを得て京に戻り、
陸奥守などを経て、従三位・参議となりました。
 
このようなことがあったため、
小野篁は超人的な存在として畏敬の目で見られていたようです。
それが後の世になって、
小野篁は、
昼は朝廷に仕え、
夜になると東山区の「六道珍皇寺」の井戸を入口として
冥界へ行って「閻魔大王」の臣として亡者の裁判を担当し、
朝になると右京区上嵯峨の「福正寺」にあった井戸を出口として
この世へ戻るのを日課としていた、という伝説が生まれました。
 
時代が下り、平安時代末期。
この頃、「末法思想」が広がり、
人は死んだら地獄に行くしかないと信じられるようになると、
地獄に行った人を救ってくれる「地蔵菩薩信仰」が広がりました。
「地蔵菩薩信仰」とは、
「お地蔵さん」は、地獄では「閻魔大王」に変身して、
悪いことをしていない人を救ってくれるという信仰です。
 
そこで、小野篁が登場する訳です。
小野篁は地獄で出会ったお地蔵さんの姿を再現して
六体の木造の地蔵菩薩像を作り、
宇治の「六地蔵」という所にあるお寺に安置したという
伝説が生まれました。
(「六地蔵」の地名はこれに由来します。)
 

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その後、その六体のお地蔵さんを
京都に出入りする街道沿いにあるお寺に分けて
悪いものが京の都に入って来ないように、
守ってもらうように安置されて、
(一節によれば平清盛がこれを行ったと言われています。)
その六体のお地蔵さんをお参りする風習が広がりました。
これが8月22日・23日に今でも行われている
六地蔵巡り」の始まりです。
 
六道珍皇寺」は、
平安時代の葬送地であった
「鳥辺野」(とりべの)の入り口にあり、
六道珍皇寺」の周辺は中世以降、
あの世とこの世の”分岐点”という意味を込めて
「六道の辻」と呼ばれました。
 
一方、出口とされた「福正寺」は
鳥辺野とともに葬送地として知られた
「化野」(あだしの)の地にあり、
死の世界から現世に戻る所であったので
(しょう)の六道」とも呼ばれました。
 
「福正寺」は明治時代に廃寺となり、
明治13(1880)年に「清凉寺」(嵯峨釈迦堂)境内にある
嵯峨薬師寺」に合併されました。
 
嵯峨薬師寺」には、
「生六道地蔵尊」と「小野篁像」が安置されています。
生六道地蔵尊」は、
地獄で猛火を受けて苦しんでいた亡者を救うために、
身代わりとなって焼かれている地蔵菩薩の姿に
心を打たれた小野篁が、自ら彫刻したものと言われています。
 
昭和35(1960)年には、冥界からの出口と伝えられる七つの井戸が
「福正寺跡」と見られる薮の中から発見されましたが、
その後埋め立てられたため、現在、井戸は残っていないそうです。