日向三代(ひむかさんだい)1. 邇邇芸命

古事記 
 

木花之佐久夜毘売と石長比売

邇邇芸命ににぎのみこと猿田毘古神さるたひこを先導に、
幾重にも棚引く雲も押し分け、神威を持って道をかき分けて、
「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気くしふるたけ」の地に天降られました。
するとそこへ、天忍日命あめのおしひのみこと天津久米命あまつくめのみことが参上して臣従を誓いました。
天忍日命あめのおしひのみこと大伴連おおとものむらじらの祖、天津久米命あまつくめのみこと久米直くめのあたえらの祖に当たります。
 
邇邇芸命ににぎのみことは「朝日がまともに差す国であり、夕日が明るく照る国である。
ゆえに、ここは誠に良い土地だ。」とおっしゃって、
そこに立派な宮殿をお建てになられました。
 
そこに落ち着いた邇邇芸命ににぎのみことは、笠沙岬かさのみさきで世にも麗しい乙女に出会いました。
大山津見神おおやまつみのかみの娘「木花咲耶比売このはなのさくやひめ」でした。
邇邇芸命ににぎのみことは結婚を申し出ると、
木花咲耶比売このはなのさくやひめは「父の大山津見神おおやまつみのかみがお答えするでしょう」と応じました。
 
大山津見神おおやまつみのかみは大いに喜び、
姉の石長比売いわながひめとともに、多くの品物を持たせて嫁がせました。
姉の石長比売いわながひめは容姿がちょっと残念だったので、
邇邇芸命ににぎのみことは姉の石長比売いわながひめを送り返して、
妹の木花咲耶比売このはなのさくやひめだけを留めて、一夜の交わりをしました。
 
大山津見神おおやまつみのかみ石長比売いわながひめが返されたことを深く恥じ、
邇邇芸命ににぎのみことに次のように申し送りました。
石長比売いわながひめを共に献上したのは、
 天津神あまつかみの御子の命が常盤に揺るぎないようにとの思いを込めたからです。
 木花咲耶比売このはなのさくやひめには、
 木の花が咲き乱れるように栄えるという意味が込められていますが、
 石長比売いわながひめを戻したからには、これ以降、
 天津神あまつかみの御子の寿命は木の花が散るように儚いものになるでしょう。」
 
このような訳で、天皇の寿命は永遠ではなくなったのです。
 
 

木花之佐久夜毘売の出産

木花咲耶比売このはなのさくやひめは一夜にして懐妊されました。
邇邇芸命ににぎのみことは不審に思い、
「これは我が子ではない。おそらくどこかの国津神くにつかみの子であろう」と
言いました。
 
これに木花咲耶比売このはなのさくやひめは怒り、
「身籠った子が国津神くにつかみの子であれば、無事に生まれず、
 天津神あまつかみの子であれば、無事に生まれるでしょう」と言って、
四方を壁に囲まれ、戸を悉く土で塗り塞いだ産屋「八尋殿やひろどの」を作り、
中に入ると土で隙間を塞ぎ、出産が始まると産屋に火を放ちました。
火は見る間に産屋を包み、その燃え上がった炎の中で、
比売は三柱の子、火照命ほでりのみこと火須勢理命ほすせりのみこと火遠理命ほおりのみことを産みました。
 
最後に生まれた火遠理命ほおりのみことこそが、
現在も続く初代の天皇となられる
神倭伊波礼毘古命かむやまといわれびこのみこと」こと「神武天皇」の祖神です。
 
疑いも晴れ、邇邇芸命ににぎのみこと木花咲耶比売このはなのさくやひめは末永く高千穂の宮で暮らしました。