「みたらし団子」は縁起物

 
下鴨神社では、毎年夏になると
御手洗祭(みたらし祭)」が行われています。令和5(2023)年は7月21日~7月30日です。
 
 

「団子」は縁起物

 
「団子」は、万物の神々に捧げる
「神饌」(しんせん)の1つでもある
「粢」(しとぎ)を丸くしたものが原型と
言われています。
 
日本人は、縄文時代には既に
「団子」を食べていたようです。
クヌギやナラの実(団栗)などの木の実を
食べるために一旦、粉にして水にさらして
灰汁が取れた粉状のものを捏ねて
団子状にして火に炙って食べていたようです。
 
「中秋の名月」や「花見」などの年中行事や、
「お彼岸」や「お盆」などの行事の時に、
「厄除け団子」や「身代わり団子」のように
無病息災や五穀豊穣を願って食べる習慣は
今でも受け継がれています。
 

みたらし団子とは

 
室町時代になると、
団子は「だんご」と呼ばれるようになり、
竹の串に通したものが流通するように
なりました。
「みたらし団子」が生まれたのも
この頃と言われています。
 
 
「みたらしだんご」は漢字で書くと
「御手洗団子」と書きます。
「御手洗」(みたらし)とは元々、
神社の周辺にあって参拝者が神仏を拝む前に
禊をする場所のことを言います。
 
京都の下鴨神社の境内にも
「みたらし川」があって、
毎年7月の「土用の丑の日」に
御手洗祭(みたらし祭)」が行われていますが、
この祭りは平安時代、季節の変わり目に
この川で貴族が罪や穢れを禊をしたことに
由来します。
 
下鴨神社の「みたらし川」は、
「土用」になると水が湧く不思議な川で、
土用の丑の日」にこちらの
みたらし川・みたらし池の水に足を浸すと
疫病や脚気に罹らないと伝わっています。
 
 
鎌倉時代、後醍醐天皇が下鴨神社を訪れた際、
「清め」のために、御手洗池(みたらしいけ)の水を手ですくったところ、
大きな泡が一つプクリと浮かび、
少し間を置いて4つの泡が
プクプクと浮かび上がったそうです。
それを人に見立てて団子にしたのが、
「みたらし団子」を起源と言われています。
 
この頃の「みたらし団子」は、
串先に団子をひとつ、
少し離して4つの団子を刺したもので、
串先の団子が頭部で、
その下の4つの団子が胴体と、
五体(人の体)と見立てて団子にし、
厄除け人形として神前に供えてお祓いをして、
持ち帰って食べることで、厄除けにしたと
言われています。
 
江戸時代に庶民も旅をするようになると
茶店や神社仏閣の境内の店などで
「みたらし団子」が売られるようになりました。
 

串団子の団子の数の違い

「串団子」は、関西では「5つ刺し」、
関東では「4つ刺し」が主流です。
 
5つ刺しの団子は関西圏に
 
京都で生まれた串団子は、
1本の串に「5つ」刺さっていました。
たちまち大人気となり、
「5つ」刺しが全国に広まっていきました。
後に関東地区などで、「5つ」刺しから、
「4つ」刺し「3つ」刺しなどに変化しますが、
京都を中心とした関西地区では、
今もなお「5つ」刺しの串団子が主流です。
 
4つ刺しの団子は関東圏
 
江戸時代には
串団子は「5つ」刺しが主流で、
1本当たり5文(1文は約25円)で
販売されていました。
 
 
それが、宝暦6(1756)年頃に
「4文銭」が流通するようになると、
混雑のお店では、4文銭1枚しか払わずに、
「5つ」刺しの団子を食べるという
不正をする客が増えてしまい、
困ったお店が苦肉の策で、
団子の数を4つにしたことにより
「4つ」刺し団子が生まれたと言われています。
 

みたらし団子の風味・味

 
「みたらし団子」の味の大きな特徴は、
やはり砂糖醤油のみたらし餡にあります。
 
「みたらし団子」は元々、
神前に供えられていたお団子を祈祷後に
醤油を塗って食べられていたそうですが、
大正時代に大きな変化が起こりました。

「加茂みたらし茶屋」
大正11(1922)年創業し、
現在も下鴨神社の門前にある甘味処
「加茂みたらし茶屋」のご主人が、
醤油に黒砂糖を入れ、葛でとろみをつけた
「みたらし餡」を絡めたお団子を
「みたらし団子」として提供したところ、
人気を博し、今日でも大勢の人に愛される
和菓子となりました。
 
モチモチした団子の食感と
軽く炙った香ばしさ、
そこに絡まる餡の醤油と砂糖の甘辛さは
何とも絶妙な組み合わせです。
 
加茂みたらし茶屋
・住所:京都府京都市左京区下鴨松ノ木町
    53
・電話:075-791-1652
・営業時間:9:30~19:00(L.O.18:00)
・休日:水曜