上御霊神社御霊祭

都の「上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は、
平安京遷都の際に桓武天皇の勅願によって
創建された神社で、通称「上御霊さん」と
親しまれています。
 
上御霊神社」では、毎年5月1日から18日に
祭礼「御霊祭」(ごりょうまつり)が行われています。
 
この「御霊祭」は、貞観5(863)年に
神泉苑(しんせんえん)で催された
悪疫退散の「御霊会」に由来すると言われ、
1000年以上も続く、「祇園祭」よりも
歴史のある「京都最古のお祭り」で、
京都の春の風物詩として地元の人々に
親しまれています。
 
 

「御靈神社」(ごりょうじんじゃ)

 
上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は、
正式には「御靈神社」と言って、
平安遷都の頃に非業の死を遂げた
崇道天皇(早良親王)らの御神霊を鎮めるために
桓武天皇によって創建されたと言われる
古社です。
 
「疫病除け」の霊社として有名になり、
その後は、不安や怒り、ストレスを抱える人の「心の病気を沈めてくれる神社」として
今も多くの参拝者が訪れています。
 
畠山政長がこちらの御霊の森に陣を敷き、
「応仁の乱」の発端となったことから、
「応仁の乱勃発の地」としても有名です。
 

御霊祭

 
毎年5月に執り行われる「御霊祭」は
怨みを持って死に祟り神となった者の霊を
慰める祭です。
 
祭の起源
祭の起源は、平安遷都前後に遡ります。
奈良時代の後半から平安時代の初めにかけ、
疫病や災害が続いたのですが、
これは怨霊の祟りではないかと
噂されました。
当時、怨みを抱いて死んだ者は
「御霊」(ごりょう)と呼ばれる祟り神となり、
疫病の流行と言った災厄を引き起こすと
信じられていたからです。
 
朝廷ではこれらの霊を祀るために、
貞観5(863)年に「神泉苑(しんせいえん)で 「御霊会」(ごりょうえ)が行いました。
その際、「神泉苑」の門を解放したことから、
庶民も「御霊会」の観覧が出来たそうです。
 
「御霊会」では、
僧が「金光明経こんこうみょうきょう」と「般若心経」を唱え、
雅楽寮の怜人れいじんが楽を奏で、稚児が舞い、
更には軽業や曲芸が演じられるという
賑やかなものでした。
 
御霊祭
「御霊祭」は、
例年5月1日に「神幸祭(社頭の儀)」、
5月17日に「宵宮祭」、
5月18日に「還幸祭(渡御の儀)」が行われます。
御霊祭中で最も盛り上がる「還幸祭」では、
剣鉾、3基の神輿(小山・今出川口・末広)、 八乙女・稚児・若武者・牛車・獅子舞などが 氏子地域を巡行し、独特な神輿の掛け声
「えらいやっちゃ」が響きます。
 
剣鉾(けんほこ)
神が渡る道筋を剣と鈴によって祓い清め、
悪霊を鎮めるための祭具。
しなやかにしなる剣先は、
神を招く意味で「まねき」と呼ばれ、
鈴の音は霊魂を鎮める音と言われています。
 
因みに、「小山神輿」は文禄5(1595)年に
後陽成天皇から下賜されたもので、
「今出川口神輿」は元和5(1619)年に
後水尾天皇から下賜されました。
そうしたご縁もあって、かつては「神幸祭」「還幸祭」ともに京都御所にも巡行し、
歴代天皇も御神輿の差し上げを楽しみに
御拝され、 明治天皇も子供の頃にご覧に
なられたそうです。
ただ東京遷都後は、御所への神輿渡御は
行われなくなりました。
 
しかし、氏子さん達の強い想いにより、
平成21(2009)年に140年振りに「還幸祭」での 神輿の京都御所参内が復活しました。
 
 

 御靈神社の御祭神

御靈神社」では、
「悲運の中に亡くなられた高貴の人々の
 御霊(ごりょう)を神として祀れば
 鎮護の神となる」という信仰の下、
八柱の祭神が祀られています。
 
  
 
奈良時代の後半から平安時代の初めにかけて
疫病や災害が続いて起こりました。
人々は怨霊(おんりょう)の祟りではないかと
噂しました。
当時、怨みを抱いて死んだ者は
「御霊」(ごりょう)と呼ばれる祟り神となり、
疫病の流行と言った災厄を引き起こすと
信じられたからです。
 
特に恐れられたのが祟道天皇すどうてんのう(早良親王)で、
桓武天皇は、延暦13(794)年5月、
この崇道天皇の御霊を祀って
「御靈神社」を創建しました。
 
貞観5(863)年5月20日、
神泉苑で御霊会が催されましたが、
この時に慰霊されたのは、
六所御霊(ろくしよごりよう)でした。
 
その後、伊予親王観察使
井上大皇后他戸親王に変わり、
火雷神吉備大臣が追加され、
八柱の祭神が祀られるようになりました。
 
 

八柱の祭神

祟道天皇(すどうてんのう)
光仁天皇の皇子で、桓武天皇の同母弟である
早良親王(さわらしんのう)のこと。
 
親王は、幼くして東大寺で出家し、
仏教教義の研鑽に身を捧げますが、
32歳の時、兄の桓武天皇が即位された際に、
父・光仁天皇の勧めにより還俗して
立太子され「皇太弟」となりました。
 
ところが「藤原種継暗殺事件」に連座し、
廃位・幽閉されました。
親王は無実を訴えるため絶食。
淡路島に配流される途中、憤死されました。
 
その後、皇太子となった安殿親王あてしんのう
(後の平城天皇)が発病した他、
桓武天皇の三妃、桓武天皇・早良親王の生母・
高野新笠(たかののにいがさ)が相次いで病死。
更には疫病の流行、洪水などが相次ぎ、
それらは早良親王の祟りであるとされ、
幾度か鎮魂の儀式が執り行われました。
 
更に桓武天皇は、延暦17(798)年に、
親王の御骨を大和国八島陵に手厚く蔵め、
延暦19(800)年(800年)には、「崇道天皇」号が
追贈されました。
 
桓武天皇の崩御後に即位された平城天皇は
父の志を継ぎ、「崇道天皇社」を創建、
永く慰霊が続けられました。

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伊予親王(いよしんのう)
桓武天皇の皇子。
式部卿、中務卿などの要職を歴任するなど
政治家としての素養を持ち、
管絃もよくし、父の寵愛を受けましたが、
異母弟の平城天皇の即位後、
藤原式家の藤原仲成・薬子兄妹に唆された
藤原北家の藤原宗成により、
謀反(伊予親王の変)の疑いをかけられ、
母の藤原吉子と共に川原寺に幽閉されて
飲食を断たれた6日後、母子共に服毒自殺
しました。
 
藤原夫人(ふじわらふじん)
伊予親王(いよしんのう)の母で、
藤原南家の右大臣・藤原是公(これきみ)の娘、
藤原吉子(よしこ、きっし)のこと。
伊予親王に謀反の嫌疑がかけられた際、
母子共に捉えられ川原寺に幽閉され、
毒を飲み自害しました。
 
観察使
藤原仲成もしくは藤原広嗣のこと。
いずれも反乱に関わっている。
 
藤原仲成は妹の藤原薬子が平城天皇の寵愛を
受けると、専横な振る舞いをしたことから、
人々から憎まれました。
その後、平城天皇が譲位し嵯峨天皇が皇位につくと、「薬子の変」で射殺されました。
 
藤原広嗣は、式家の復権を目指しましたが、
橘諸兄(たちばなのもろえ)政権と対立に敗れ、
大宰少弐(だざいのしょうに)に左遷。
玄昉と吉備真備の排除を直言したものの
入れられず、乱(藤原広嗣の乱)を起すも
敗れ、処刑されました。
 
橘大夫(たちばなのたいぶ)
最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡り、
帰国後は琴と書の第一人者となり、
空海・嵯峨天皇とともに「三筆」の一人と
言われた橘逸勢(たちばなのはなやなり)のこと。
 
仁明天皇は即位すると、
父である嵯峨上皇の意向で、
恒貞親王を皇太子に立てました。
 
しかし、嵯峨上皇が亡くなると、
平城天皇の子・阿保親王の密告により、
旧豪族の橘逸勢は謀反の疑いで突然逮捕。
確証のないまま逸勢は伊豆配流となり、
途中遠江で亡くなり、恒貞親王は廃されました
(承和の変)。
 
これは藤原良房の陰謀と言われ、事件後、
良房の甥の道康親王(後の文徳天皇)が
皇太子となりました。
因みに、阿保親王(あぼしんのう)の子に、
在原朝臣を与えられた在原行平、在原業平がいます。
 
文大夫(ぶんのたいぶ)
謀反の罪で伊豆に流罪になったのこと。
840年に筑前守となった文屋宮田麻呂ふんやのみやたまろ
官職を解かれた後も九州に留まり、
新羅の張宝高と交易を行なっていました。
843年に謀反を企てていると密告されて、
伊豆に流罪となりました。
 
これは前年の「承和の変」で、
同族とみられる文室秋津(ふんやのあきつ)
左遷されたためであるとか、
新羅と貿易のトラブルがあったとか、
瀬戸内海交易独占を図っていた藤原北家が
国際交易にまで活動範囲を広げていた
宮田麻呂を脅威に感じて抹殺したなど説が
あります。
 
井上大皇后(いのうえのおおきさき)
聖武天皇の第一皇女で、
5歳で伊勢神宮の斎王に卜定され、
10歳から27歳まで斎王として伊勢神宮に
出仕しましたが、弟の安積親王薨去により、
斎王の任を解かれ、退下。
帰京後、白壁王(光仁天皇)の妃になり、
酒人内親王、他戸親王を産みました。
 
その後、白壁王が天皇に即位すると、
井上内親王は皇后に、他戸親王は皇太子に
なりましたが、称徳天皇崩御後の皇位継承で
山部親王(桓武天皇)を推した一派による
策謀により無実の罪を着せられ、
他戸親王と共に庶人に落とされ、
宇智郡に配流され、1年半の幽閉生活の後、
母子共に暗殺されました。
 
他戸親王(おさべ しんのう)
他戸親王が皇太子を廃されると、異母兄の
山部親王が替わって皇太子に立てられ、
後に桓武天皇として即位するものの、
他戸親王の死後には天変地異が相次ぎ、
更に周防国で他戸親王の偽者が現れるなど、
光仁・桓武両天皇は「他戸親王の怨霊」に
悩ませることになりました。
 
火雷神(ほのいかずちのかみ)
黄泉国よみのくに伊邪那美命いざなみのみことの身体から生じた
8雷神の一つで、その名の示す通り「雷神」。
落雷から身を守ってくれる神様として、
雨をもたらす稲作の守護神として
雨乞いなどで祭られる事が多い神です。
 
ただ「御霊信仰」で「火雷神」と言えば、
普通は「菅原道真」を意味します。
 
井上内親王が配流された時に産んだ
御子とする説もあります。
井上内親王は宇智郡の社寺に
安産祈願をして回り、「火雷神(若宮)」を
無事に生みました。
 
『御霊大明神縁起』によると、
若宮は成人後、母兄が配流されたことを聞き
「我神通力を起こして怨みをなしたる
 人達を皆殺しにし、国中を暗闇にして、
 母や兄達の怨みを晴らす」と言うと、
そのまま雷神となって空に昇り、
都を始め諸国七堂に至るまで天地を動かし
激しく雷雨を起こし続けました。
 
天皇は、井上内親王、早良親王、他戸親王、雷神を神として一所に祀り、
井上内親王に御霊大明神の官位を授けると、
雷神は「これより祟りをやめ、国家を
守護する」として天に昇ったとそうです。
 
「雷神」は、御霊本宮と丹生川を挟んだ
対岸にある「火雷神社」に鎮まっています。
 
吉備大臣(きびのおとと)
「上御霊神社」では現在、
吉備真備(きびの まきび)としていますが、
吉備内親王(きびないしんのう)とする説、
鬼魅(災事を司る霊)をあてる説も
あります。
 
吉備内親王(きびないしんのう)は、草壁皇子と元明天皇の娘で、元正天皇・文武天皇の姉妹。
長屋王の妃となり三人の皇子を産みますが、
「長屋王の変」で自殺に追い込まれました。